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バウハウス外観

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バウハウスって知ってます?

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バウハウスという美術学校の名前はよく聞きます。

私もこの学校の名前を耳にしていますが、確たるイメージが湧かないまま現在に至ってしまいました。ところがブログを初めていろいろとアートやデザインを勉強しているうちに避けては通れないことがわかりました。

 

バウハウスは1919年(ちょうど100年前)ドイツのワイマールに設立された美術学校です。

あまりに有名な名前のわりには実際存在していたのはたった14年間で、最後にはナチスに目をつけられて強制的に閉鎖させられてしまいます。

ナチによって学校閉鎖って、結構刺激的です。

だいたい美術学校があのナチスに睨まれるってのが、なんとも興味深くて、私のバウハウスへの探索はどんどん深まっていきました。

このブログはデザインやアートのことを、わからない人に理解してもうらうのが目的なので、なるべく簡単に書こうと思っています。したがって難しい単語や観念をさけて表現しようと思っていても、資料をあさると、その文面をちょっと引用したくなるんですが、そうなるとどうしても文章が難しくなってきてしまうんですよ。

で、このバウハウスもけっこう難解な記事になってしまうので、なるべく平易に書くことをめざします。

歴史の中のバウハウス

美術の歴史は、美術界の動きだけを見てもまったく理解できないことがよくあります。

このバウハウスが存在した時代は世界が大変革を遂げている時代です。産業革命、工業製品の台頭、個人の台頭、意識改革、第一次、第二次世界大戦。

その中でアート自体も大きく、舵をきらざるを得なかったのです。

一番の影響は産業革命です。

すでに1830年ごろのロンドン市民の生活用品の80%は工業製品で締められたと言われています。それ以前には道具といえば職人が伝統を重んじ、手作りによる伝統の形を守りながら作られていたわけです。

ドイツにマイスターという言葉があります。これは日本でいうところの「職人の親方」のことです。そしてもう一つの意味は徒弟制度ってのもありますね。それだけ言えばなんとなく理解できますね。

ようするに産業革命以前の道具は職人が作っていました。

ところが産業革命が起きてからは、商品は職人が作っているだけでは当然追っつかなかくなってきたわけです。個人の台頭、都市の発達、人口増加など文化的な生活を始めた市民の手には、工業製品という新しい商品が席巻し始めるのです。

余談ですが、私はマイスターと聞けばどうしてもビールを思い浮かべますが、クラフトビールですかね〜

どうしても大量生産できない、限定品のコクとキレが抜群のビール。

まさに職人技が光るビール。

日本の大手ビール会社でも商品にこのマイスターの名前がついていますが、基本的には企業が大量生産してしまうとマイスターのイメージからは遠ざかりますね。

ところが「マイスター」のイメージをビールの名前に組み込んだのは広告としては大成功っていうわけですね。

とにかく旧体制と新しい体制の間、そんな時代の中にバウハウスは生まれた訳なんですね。

バウハウスの教師たち

バウハウスは総合的な美術学校で工芸、写真、デザイン、美術、建築などの教育をおこなっていました。
最盛期でさえ学生総数は200人を超えることはなかったそうで、日本で言えば美術大学でなく専門学校ぐらいの規模ですかね。日本人も3人在籍しておりました。

教師陣がこれまたすごくて、クレー、カンディンスキーといった誰でもが知っている芸術家が教鞭をとっていて。他にも初代校長の建築家ルター・グロビウス、またミースファンデル・ローエなど錚々たる人物がいました。

実際彼らもこの学校にいる間に、自己を完成させていったと言われています。

バウハウスが行った画期的な教育方法

さきほどマイスターの話をしましたが、ドイツのマイスターは日本の職人の親方とはちょっと違い、その役割は今でいうところのアートディレクターのようなものです。

美術表現、芸術表現をもちいた総合演出を手がける職務を意味する。商業活動のなかでは、広告、宣伝、グラフィックデザイン、装幀などにおいて、主に視覚的表現手段を計画し、総括、監督する職務である。顧客の依頼・要望あるいは、立案された計画を目的達成するための素材や表現方法を模索し決定する。

デザインは日本では意匠という意味合いが強いのですが、他にも「計画するという目的をもって具体的に立案・設計する」という意味もあるそうです。

このようなデザインの考え方を持ったデザイナーやアーティストを、新たな時代に対応できるように育てるために、バウハウスは設立されました。

さて実際のカリキュラムですが、学校内に工場があり学生は週に3回8時間の工場実技をして製品を作り、販売をしていました。

その資金で学生の学費負担を補っていたと言われています。その他に材料学や簿記や見積り、契約の仕方などビジネスに関する徹底した教育方を学ばせていました。

学校としては決して安定していなかったバウハウス?

バウハウスは閉鎖されるまでに3回移転します。

調べていくうちにたくさんの理由があることがわかります。

まず一つは経済的な理由でバウハウスは移転します。最初は国立の学校として設立されます。

その後1925年にデッサウに移転します。(上記画像は有名な写真はデッサウの校舎です。)この時は政治的な理由で国立から市立に格下げされます。

デッサウ校も1932年に閉鎖されベルリンに移転し私立 学校になりますが、33年にナチスにより閉鎖されてしまいます。

国の補助を受けられず最終的には私立の学校になってしまいます。資金的にも厳しかったことが窺われ、それが原因で学校の存続も怪しくなっていったわけです。

次に教育者による教育方針の対立もありました。このあたりを読み解くと、大変難しくなってしまうのでここはカット!笑。

と、いうわけにもいかないので、ここはさらりといきましょう。

大きな意味でバウハウスが考えるデザインは工業社会と純粋芸術と応用美術の統合です。これはすべての芸術活動の統合されたものであるのです。であるからこそ学生たちは職業人として技術知識を学ぶ一方、同じ比率で芸術理論を学んでいました。

今、この教育方針を知ると、なるほど思いますが、当時の教育者としては理解できなかった人もいるのではないかと思われます。そのなかでこの暴れ馬のような学校の行く末にいろいろな葛藤が生まれ、去っていく者もいました。

結局バウハウスとは

複雑な要因が絡むこの時代。腑に落ちるような答えがこのバウハウスには浮かびません。

美術史家や評論家の本を読んでも一般的にも確たるイメージがないの正確な評価ができないのが事実。

このバウハウスは知ろうとすればするだけ複雑な存在だった訳です。ただ新しい思想や意識を持ったアーティストがやがて訪れる世界に対して準備をするために、過去を捨て革新的に取り込んだのがこの学校でした。

バウハウスにはきまった様式はありません。

印象派、キュピズムとかいうような私たちが一定のイメージを持つことはできません。

この学校の教育方法はあくまでも。純粋芸術と応用芸術の統合です。

ナチスになぜ閉鎖に追いやられたのか?

表向きには学内に共産主義組織があったということが原因のようですが、

実はバウハウスのしようとしていたことは、権力や権威の象徴の破壊だったのです。

国家の栄誉や威信を讃えるものでなく、あくまでも個人生活の精神的豊かさを求めるものだったからです。

またこのころバウハウスの教授や学生たちが作った公共住宅やデザイン製品が脚光を浴び始めていました。それらは美術的な権威や装飾品のようなものと違っていました。

そのような個人主義の豊かさに寄与するものはナチスにとって目障りになっていたに違いないのです。

そして、強制的に閉鎖させられてしまうわけなんです。

恐ろしいことです。現代ならこんなことは絶対にないはずですが、当時はこのような弾圧はあたり前にあったのです。

ドイツを追われたバウハウスの関係者はアメリカに渡ります。
自由の国、資本主義の国「アメリカ」です。
かれらはアメリカの資本主義者にあたたかく迎えられました。

今私たちが関わるすべてのデザインはアメリカから輸入されたものといっても過言ではありません。

デザインスタイル、理論、マーケティングやプレゼンテーションスタイルにいたるまでその源泉はアメリカです。

そのアメリカのデザインの源泉を作ったのがバウハウスなんですね。

もちろん戦時中に渡ったのはこのバウハウスの残党だけではありません。多くの芸術家がヨーロッパから戦火を逃れてアメリカに新天地を求めたわけです。

※バウハウスは特定の様式はないと書きましたが、建築の様式に関しては、バウハウススタイルと呼ばれるものはあります。コンクリートの建物や大きな窓、金属性の軽く丈夫な家具を使ったそのスタイルは、今私たちが生活する居住空間の基礎となっています。

ただし特定のスタイルをつくることはバウハウスの教育理念とまったく相反します。

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